大河ドラマ関連地 気賀の「堀川城跡」と「首塚」
Kiga, Kitaku Hamamatsu - August 29, 2017
堀川城跡(ほりかわじょうあと)。1560年頃、浜名湖北岸、気賀の入江、都田川の河口に、気賀の土豪によって作られた水上の城。満潮時は水に囲まれ干潮時は回りは湿地帯であり難攻不落であったという。1569年、徳川家康軍の攻撃により落城。 |
大河ドラマゆかりの地、浜松市北区細江町気賀にある「堀川城跡」をご紹介します。場所は、浜松市北区の区役所から西に600mほど行ったところの道路脇、周囲は見渡す限り田園です。
戦国時代(1560年)、気賀の土豪たちによって建設された水上の城が堀川城です。NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の中では龍雲丸が城の図面を書いていましたね。龍雲丸はフィクションですが、瀬戸方久は徳政令から免除される代わりに堀川城の備蓄のための出資した(1568年)という記録は事実として残っています。
生け垣によって囲まれた小さな公園が堀川城跡です。ただしあくまで位置は推定です。園内には「堀川城跡」の石柱と、その左側には「首塚」があります。
この城が存在したのはたったの10年、当時、気賀は今川市の配下にありました。徳川が今川を倒すために侵攻してきますが浜名湖の北側ルートを採ります。調略された井伊谷三人衆(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)の導きで刑部城や引馬城(のち浜松城)は容易に落城します。しかし、土豪や農民が立てこもる堀川城は抵抗が強く、1569年の総攻撃をもってついに落城します。
堀川城の落城ストーリーは「堀川城の悲劇」として後世に伝えられています。これは徳川家康が行ったもっとも残虐な戦いとも言われています。立てこもった2,000名の内、1,000名はなで斬り(戦いに参加した大久保彦左衛門の記録)にされて殺され、逃げた人たちは探し出して捕虜にされ、後日、700名は女子供まで含めて打ち首にされたと伝わっているのです。数字に誇張は入っているかもしれませんが、当時の気賀の人口の半分がこの戦いで亡くなったそうです。
現在は干拓されて海抜は1.3mあり広大な田園になっていますが、当時は浜名湖の入江でした。
東の方角の眺め。
西の方角のながめです。
ここから約500mほど北側の街道沿いが処刑場だったそうで、そこには「獄門畷(なわて)」の石碑が建っています。その他にも大河ドラマ関連スポットとして、大河ドラマ館と瀬戸方久の墓がある全得寺が1km以内にあり、また井伊家の屋敷や南渓和尚の龍潭寺は北東に4kmのところにあります。
NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台となった気賀は、ドラマを観てはじめてその過去の様々な歴史を知った、という人は地元でも多いはずです。その意味で大河ドラマが地元にもたらしたものとして、単に観光客によって収入が増えたというだけでなく、地元の歴史を再認識させてくれた、というところも大きいと思います。
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