「見徳古墳」(浜松市都田町)
Miyakoda, Hamamatsu, JAPAN
見徳古墳(けんとくこふん)、古墳時代後期(7世紀初頭)円墳。直径12m、高さ2mほどの。市指定史跡。もとは4基の古墳群であったが3号基のみが残り公開されている。保存状態は良く中に入って見学ができる。 |
浜松市北部、新都田の「都田総合公園」に隣接する「見徳古墳」をご紹介します。浜松市北部は古墳の宝庫、何百という古墳があるのですが、大部分は公式な調査がされておらず、開発により失われたものも少なくありません。その中で「見徳古墳」は浜松市の史跡に指定され、よく保存・管理されている古墳です。
アクセスは便利で、都田総合公園の北駐車場が至近の駐車場。向かいには「沢上墓苑」というお墓があります。7段の階段を登ってお墓に入り、すぐに左手に折れて進みます。(撮影 2017年7月)
奥に進んでいくと高台が見えますので階段を登ります。
階段を登ったところに古墳が現れます。ここは「見徳墓苑」という墓地で、都田町の横尾と谷上という地区の住民の専用墓地となっています。見徳古墳は墓地の中にありますのでお墓参りの方の邪魔にならないように静かに見学しましょう。
古墳を正面から見ます。季節によっては墳丘の上はビッシリと雑草で覆われています。今回の訪問直前に草が刈られたようで、墳丘の形がよく確認できます。
横穴式石室は奥行き8mほど、もちろん照明はありませんので懐中電灯などを持参するといいですね。
それでは内部を探検します。
入口は比較的狭く、大人であれば少し身をかがめなければ入れません。
途中に2ヵ所、左右から岩が張り出しています。手前が「羨門」、奥が「玄門」です。
もっとも奥が「玄室」で、広い部屋になっており天井まで2mの高さがあります。ここに石の棺が納められていました。正面には最大の岩「鏡石」が立てられています。さて、1400年前、ここに葬られたのは誰であるか、が謎です。文字の使用がまだ一般的ではなかった時代、当然記録はありません。おそらく墓の主は都田在住の地方豪族であろうと考えられています。
Zaucats説> 都田地区には縄文時代からの住居跡があり、弥生時代の遺跡や銅鐸が発掘されています。その後、続々と古墳が作られましたので、このエリアは長年に渡って住人が代々生活を営んでいたと思われます。都田の苗字や地名の調査から、人の出入りが少ない地域であることが知られており、ひょっとすると古墳の主はここ見徳墓苑のお墓に葬られている方々のご先祖様かもしれません。(参考:「都田とは〜その地勢と歴史」)
床には丸い石がびっしり敷き詰められていました。奥の鏡石には北斗七星の形に黒い点が見えたので「すわ! 古代人の絵か!」と思ったのもつかの間、黒い点が動き、カマドウマ(虫)が犯人でした。
古墳を斜めうしろから眺めています。墳丘の上には石が積まれて台状になっていますが、後世の人が作ったもの。上に石仏が祀られていました。その後、嵐か何かが原因で石仏が倒れ、先日、古墳入口の左側に移動されました。
見徳古墳の発掘調査の際に見つかった埴輪です。都田図書館において「遺跡が語る都田の原始・古代」と題して講座が開かれ、その際に、実際に発掘された土器類が展示されました。ツボや高坏など、須恵器と呼ばれる土器です。(撮影 2017年10月)
次に、講座のテキストとして見徳古墳の昔の地形図が示されました。2号墳とこの図面上にない1号墳は墓地造成のために跡形もなく消滅しています。3号墳は現在、市の史跡として公開されているものです。問題は図面左上の4号墳です。見徳墓園の中にありますね。講座において「4号墳はわずかに痕跡を留めています。」と説明がありました。
実際に現地で4号墳の痕跡を確認してみました。左の草で覆われた小山が3号墳。4号墳の場所は右奥に進んだあたりです。
4号墳があると思われる場所に行ってみると空地になっていて、やや盛り上がっています。丸い低木の左側が盛り上がりのピークです。図面上の盛り上がりの高さは30cmですから、ほぼ一致します。掘れば玄室の石が出てくるのかもしれませんが、神聖な墓地内ですので、はるか古代に思いを馳せて古墳を想像するにとどめました。
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