都田の「須倍神社」

撮影 2017年9月13日
SUBE SHRINE, Miyakoda, Hamamatsu - Sep.13, 2017
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須倍神社(すべじんじゃ)、創建は887年、伊勢神宮の御厨である都田に神宮を勧請したと伝わる。内宮の祭神は天照皇大神、外宮の祭神は豊受姫大神ほか。例大祭は都田9郷の子どもたちが交代で浦安の舞を奉納する。延喜式内社。
 ・浜松市北区都田町神明風呂6
 ・TEL 053-428-2097
 ・バス 浜松駅より都田行「都田西」下車5分
 ・車 新東名「NEOPASA浜松SA」より5分
 ・境内自由、駐車場あり

浜松市北部、都田町の由緒ある神社「須倍神社」をご紹介します。「須部」といえば浜松市民にはおなじみの美味しい豆腐の「須部商店」と同じ名前ですが、ルーツは同じなんです。場所は、その須部商店が経営する豆腐料理のお店「勘四郎」の北西200mほどのところ。須部の豆腐は知らなくても「勘四郎」は市外県外の方でもご存じの方は多いようです。今すごい人気ですからね。

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さて、須倍神社は国道362号線を北に入るとすぐに神明様式の石の鳥居が建っています。神明鳥居とは下側の横棒の両端が飛び出ておらず、伊勢神宮に関係する神社の鳥居です。それもそのはず、須倍神社は平安中期の887年、伊勢神宮から勧請したものと伝わっているのです。いまから1,100年以上前のことです。

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古い記録には、都田は平安以前から神明宮(伊勢神宮)の御厨(みくりや)でした。地域の特産品を納める代わりに税を免除される、いわば神社の直轄地あるいは荘園です。この縁で神明宮を勧請したのでしょう。

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須部神社は伊勢神宮と同様、当初は内宮と外宮に別れていました。内宮は現在地より2kmほど北東にあり(その場所は現在、すべという地名になっています)、外宮は都田川の少し下流、下都田の中津にありましたが、902年、内外の両社を統合して現在地に祀られました。

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大きな木に覆われた参道を真っ直ぐ進むと正面が拝殿です。

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拝殿の中には賽銭箱が2つ、右が内宮用、左が外宮用です。

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上を見上げると篇額がかけられています。左右には内宮外宮の祭神が説明されていますように、内宮の祭神は天照大神、外宮の祭神は豊受姫大神ほか3柱、これに加え明治になってそんなにの69の神社が合祀されました。

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拝殿を右側から眺めました。

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拝殿の後ろに少し距離を置いて内宮と外宮の神明造りの神殿があります。右の内宮は屋根の上の鰹木は6本、外宮は5本です。当初は茅葺きでしたが1927年、銅葺きに改造されました。なお、伊勢神宮でも同様ですが、内宮外宮は神聖な建物ですので塀の中にあり、写真撮影はこの程度までです。

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本殿の左手境内には2つの末社が建っています。右は秋葉神社。火防の神様です。左は津島神社と姥神社。厄除けの神様と金属製造の神様です。

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日清戦争に都田から従軍した17名を記した石碑「征清戦徒紀念碑」です。明治33年に建立されました。なお日清戦争での戦死者はありませんでした。

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こちらの石碑の由来は現在調査中。

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こちらは社務所です。須部神社は、平安時代に編纂された「延喜式」において式内社と定義されています。また、遠江国引佐郡六座のひとつ、遠州三神明宮のひとつとされています。秋の例大祭(10月14, 15日)では都田の9つの地区が交代当番制で子どもたちによる「浦安の舞」が奉納されます。

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都田町内には「須部」を名字とする家が多数ありますが、これはその昔、須部神社を守ることを生業とした家の名残です。なお、「べ」の字が神社と名字(地名)で違っていますが、これはあえて文字を変えてあるのだそうです。

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