「丸太町橋」の西詰南側に重厚な旧電電公社(旧京都中央電話局上分局)の建物(現在フレスコが入っている)がありますが、建物と橋の間、川岸遊歩道の入口に石碑が建っています。もと旧九条殿河原町邸のあった場所です。
女紅場の正式名は「新英学校及び女紅場」、明治四年に女子教育の場として解説されます。
新島八重がここで舎監となったのは明治5年。機織りなども教えます。新島襄と出会う前のことです。
女紅場は1923年に「京都府立第一高等女学校」と改称、さらに1948年「京都府立鴨沂高等学校(現)」となりました。現在は京都御苑・仙洞御所の東側にあります。
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