渋谷街道、馬町通を東から西に向かって眺めています。京都女子大の新入生の入寮日とあって通りは学生さんたちでにぎやかです。黄色い矢印のところに源義経の家臣、佐藤継信・忠信の塚の「道標」があります。
ここから狭い路地に入っていきます。10mほど入った民家の脇にあります。
幕末に活躍した佐藤政養は、佐藤継信・忠信を自分の先祖だとし、1873年、十三重石塔のとなりに「佐藤継信・忠信墓」、「佐藤文褒翁碑」(文褒は佐藤政養の父)を建立しました。
「継信」を「つぎのぶ」と読むのか「つぐのぶ」と読むのかはっきりしません。江戸時代の書物には「つきのふ」となっていましたので、ここでは「つぎのぶ」としておきます。
また佐藤政養の遺族が1874年「佐藤政養招魂碑」を建てました。さらに1927年、遺族・佐藤政治郎が道標(一番上の写真)を建てたのです。十三重石塔はここにはありません。現在、京都国立博物館の敷地内に復元されて建っています。
京都国立博物館の「十三重石塔」です。博物館建物の前にふたつ建っています。遠くからの撮影ですので小さく見えるかも知れませんが、近くで見るとそびえるほどの大きさです。
馬町の「十三重石塔、佐藤継信・忠信塔」は、江戸時代、既に観光名所でした。当寺の様子は「花洛名勝図会」(引用:国際日本文化研究センター・データベース)に描かれています。
十三重石塔の形がおかしいと思われるかも知れません。何らかの理由で上部が崩れてしまい、片や3段、もう片方は5段しかありません。崩れた石材は築山の周囲に用いられています。京都国立博物館の現在の形はこれらを組み立てなおしたものです。見物している人を見ると、武士もいれば近所の住人の母子もいますね。江戸時代から周囲は住宅地だったようです。「花洛名勝図会」には「馬町の北側民家のうしろにあり」と書かれています。
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