大興寺は真如堂の北側、「萩の寺」迎称寺の西隣です。
奥にアパートがあるのみ。もともとの本堂の大きさを確認するため境内に入ってみました。
アパートの前で花壇の手入れをされている女性に訪ねてみました。
「あのう、ここにあった大興寺はどうなったのですか?」
すると女性は、
「この建物が大興寺ですよ。もともとの本堂は痛みが激しく、倒壊の恐れもあったので12年前の取り壊し、いまは本尊ともどもこちらを本堂にしているのです。」とのことでした。よく見ると奥の建物は学生アパート、手前は住宅になっています。さらに、
「住職がおりますので、もしご興味あればお話ししますよ。」その女性は大興寺の奥様でした。
中に入らせて頂き、ご住職から大興寺にまつわる歴史などたっぷり伺うことができました。その一部をご紹介します。(内部の写真撮影は遠慮しました。)
玄関を入るといきなり真正面に大きなご本尊「薬師如来坐像」が須弥壇ではなく畳の上におわします。「うわっ」と歓声を上げました。ご本尊は両脇に四天王像を従えています。お寺で本尊を拝むときは通常、かなり距離をおいて少し見上げるくらいに拝みますが、ここは5cmまで近づき、前から後ろから見下ろして観察(?)できます。ご住職が「このように本尊を見ることが出来るのは今だけですよ。本堂が再建したら見れなくなります。」とのこと。
奥の部屋の窓際に十二神将(運慶作と伝えられている)が並べられていました。もとは本尊の両脇に置かれていたそうです。数えてみると2体足りません。その2体だけは他の10体と造りが違っていて、珍しいものとか。仏像の研究で著名な和歌山県立博物館館長・京都国立博物館名誉館員・伊藤史朗先生が持っていかれて調査中だそうです。間近で見ると、神将の体中に経文が書いてありました。暗い本堂にあったら絶対に見えませんね。
部屋の西側に「関帝像」がありました。説明によると、日本最古とか。松の木で彫られ、中国(北宋)から貿易船で持たらされたもの。関帝像は現在、商売の神様として華僑に崇拝され「関帝廟」において見ることができますが、ここの関帝像は現代のものと違い古い形を留めています。作られた当時の関帝は武神。足利尊氏のものであった可能性が高いとのこと。
境内には取り壊した本堂の廃材が残されています。再建の時に再利用するのでしょうか。木材の右側に見えている壁は簡易倉庫です。この中にも本堂内の遺物が多く保管されています。
大興寺は後鳥羽上皇の勅願によって建立されたとのことですが、奈良の大寺、東大寺と興福寺にあやかるように一字づつ取って「大興寺」とした。一方、九条道家により創建された東福寺も同様に東大寺と興福寺から一字づつ取ったのですが「大」と「興」は既に取られて大興寺となったので、残りの2字で東福寺とした、と、真実かどうか。。。
今回の訪問でお話を伺い、長年の謎「山門だけあって本堂がない、廃寺になったとの情報もない」がすっかり晴れました。
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