かつて京都・花街のひとつであった島原ですが、現在は京都花街組合連合会を脱会し、輪違屋のみがお茶やとしての営業を続けているのみです。また以前はいくつかあった揚屋(あげや)も、ここ角屋のみが「揚屋造」の遺構として保存され、国の重要文化財に指定されています。ここは明治5年まで営業していました。
この地には平安遷都直後、朱雀大路をはさんで東西に「鴻臚館(こうろかん)」が置かれ、海外の賓客を接待するための施設があったところ。その石碑が角屋の外壁にそって建てられていました。
ここが入り口(建物東側)です。さあ、さっそく見学しましょう。
見学コースに従って建物に入ると、そこは大きな台所です。冷蔵所が右にあって、覗いてみると深い巨大な井戸。階段で降りることが出来るようになっていました。
揚屋は現代の宴会場のようなもの。大広間では遊宴、お茶会、句会などが開かれ、文化鎖音的な役割を果たしていました。
そこで出される料理をつくるための台所(重要文化財)です。
寺院の庫裏のように、高い天井になっています。
かつてこの場所では料理人やスタッフが忙しく働いていたことでしょう。
かつては各藩の武家屋敷の宴会も行われていたそうです。西郷隆盛や坂本龍馬も訪れたそうです。お客の刀を預かる「刀箪笥」です。
客室に移動します。ここは「網代の間」(重要文化財)、内庭を眺めながら宴会ができます。
そしてこちらは格調高い「松の間」。新撰組の初代局長、芹沢鴨がここで遊興のあと、酔って壬生の屯所に戻ったところ暗殺されたそうです。
正面の庭に臥龍松があったため、このように名付けられたのでしょう。
宴会に疲れて一服するための、風流な休憩所も作られています。
茶室を備えているのも揚屋の特徴です。奥に見えているのは「曲木亭」(重要文化財)です。
江戸時代の「都林泉名勝図会」(1799年版)に描かれた角屋です。雪の積もった庭で雪だるまを作ったり、町民風の男女や子供などが興じています。建物の構成も臥龍松も今とまったく変わりません。
ここが正式な玄関です。お客さんはここから座敷に入ります。刀掛けと刀箪笥は入ってすぐ正面にありました。