趣味あれこれ

<目次>

プログレ
プログレが仕事になっていく
オールディーズ
劇伴
ヴォーン・ウィリアムズ
学生時代の音楽経験
Nコン



プログレ(Progressive Rock)

(予備校生時代 1969年 - 現在)

英国発祥の音楽ジャンルのひとつ。「プログレッシブ・ロック」の略称。(英語表記は"Prog") 「ロック」という語が含まれているために、いわゆるロック音楽の一部のように思われがちだが、独立した音楽ジャンルだと考えたほうが良い。一般のロックで用いるエレキギター、ベース、ドラムスといった楽器以外にも様々な楽器を使い、非娯楽的、すなわち、より高い音楽性を目指したものが多い。クラシック、ジャズ、前衛音楽、民族音楽など様々な音楽要素がベースになっている。曲の構成は一般的に複雑。ポップス(ポピュラーソング)とは一線を画す。

1968年ごろからアンダーグラウンドにて従来のポップミュージックに飽きたらない革新的なミュージシャンが実験的に活動を開始した。1969年にはKing Crimsonがポピュラリティを勝ち得、1970年に入って多くのグループが英国において認知されアルバムもチャートにランクインを始めた。英国の音楽業界(レコードレーベル、プロデューサー、ライブハウス、音楽誌)もこぞってプログレグループを発掘しレコード化、1970年代の前半には英国、日本、ヨーロッパにおいて音楽的地位を確立したが、その後急速に衰退したものの、非大衆的な音楽ジャンルとして現在なお継続している。当時のプログレグループの多くは現在なお演奏活動を続けているもの多数。なお、プログレはマニアと自称する愛好者が全世界に多い。

Zaucatもそのマニアの一人。収集したプログレ・レコードはCDもあわせて500枚以上。1969年、King Crimson, Yes, Soft Machineが英音楽界に着目されるや、私もすぐその虜になり、趣味が高じてその後の現在に至る人生を支配することになった。40年が経過した現在、当時の音楽を聞いても、その高い音楽性は色あせていない。なお「プログレ」という言葉は日本で発祥した和製英語であると思われるが、現在では「Progressive rock」あるいは「Prog」として全世界で通じる言葉になった。


「プログレ」とZaucatsとのかかわり

英国で発祥した一大音楽ムーブメントのプログレが全盛期を迎えるのは1970年から1973年の4年間である。英国の音楽紙「Melody Maker」に掲載されるコンサート広告の大半をプログレが占め、またクイーンエリザベス・ホールやロイヤルアルバート・ホールといった従来クラシックでしか使われなかった著名なホールでもプログレが演奏され、社会的な地位が確立した時期でもある。

Charisma, Vertigo, Island, Harvest, Neon といったプログレ専門のレコードレーベルが出来、英国各地からプログレグループが発掘され、多くのレコードが発売された。もちろん、1970年にいきなり多くのプログレグループが生まれたわけではない。従来のポップミュージックに飽きたらない多くの音楽家が実験的な活動を行なっていた。代表的なものとして、Soft Machine, King Crimzon, Nice などがその先駆的位置づけであり、メジャーレーベルと契約したいくつかのグループは60年代のレコードリリースを聞くことができるが、その他の大半のグループの音がわれわれの耳に届くには1970年を待たねばならない。

ところで1970年から1973年の4年間は私の大学4年間に完全に一致する。そう、最も感受性の高い4年間に、この世紀のムーブメントをリアルタイムに体験したのである。わたしの音楽活動は小学校5年から鼓笛隊と合唱ではじまり、大学に入るまでずっといろいろな形で続いていた。クラシック音楽も大半は高校までに聴きつくした。そしてプログレを聴き、プログレの音楽は私の細胞一つ一つの奥に、DNAに埋め込まれた。当然のことながらプログレは私のその後の人生を支配することになっていく。

プログレを毎日聞き、プログレが好きになれば当然自分自身でその音楽をやってみたくなる。学生時代の4年間、バンド活動をおこなったが挑戦した楽器はキーボード(ピアノ中心)とベース・ギターであった。しかし演奏活動を続けていくうちに大きな壁に突き当たる。演奏技術はもちろんのこと作曲能力についてもプロにはかなわない。そこで大きな目標変更を行ったのが大学4年のとき、それまでの専門である「物理」を捨て、プログレ・グループに使ってもらえる「楽器開発」に変更した。私自身の一生にかかわる重大な決断であった。


「プログレ」が仕事になっていく

理学部に音楽系の会社からの入社案内が来るはずもない。一般公募でヤマハ(当時の社名は日本楽器製造株式会社)に応募、そして入社試験に合格してしまった。それまでご指導下さった大学の研究室の先生方には申し訳ないが、勉強してきた物性物理を全部捨ててヤマハに入社。

入社後もまだプログレは続いていたが、Genesisが「Duke」をリリースした頃から「プログレは終わるな」と予感した。なお、プログレといえばイギリスだが、この音楽文化は波紋のように世界に広まっていく。イギリスに近いドイツとオランダのプログレ全盛はイギリスと同時期。一方、イギリスから少し離れている北欧、東アジア、イタリアなどのピークは1970年代の後半になる。

ヤマハにおいて新しい楽器の研究活動に没頭するが、いくら意欲があってもそんなに簡単に新しいものが作れるわけではない。研究開発活動の結果、なんとか新しいものが出来そうな手がかりが掴めたのは5年後の1979年、この時プログレブームは終わっていた。新しい技術を楽器として完成させ、製品として発売したのは1983年になる。このときプログレは跡形もなくなっていた。でも発売した新コンセプトの楽器を世界中のミュージシャンが使ってくれた。その楽器は「DX7」というシンセサイザーである。


プログレの金字塔リスト

  • The Enid - Aerie Faerie Nonsense
  • The Enid - Touch
  • The Enid - Six Pieces
  • The Enid - The Bridge
  • The Enid - Dust
  • Genesis - Trespass
  • Genesis - Foxtrot
  • Genesis - Selling England By The Pound
  • Genesis - A Trick Of The Tail
  • Premiata Forneria Marconi - Per Un Amico
  • Kayak - Royal Bed Bouncer
  • Kayak - The Last Encore

そしてGenesisのTony Banks の曲構成の緻密さにはいつも感服、Genesis結成当初のメンバーAnthony Philipsはあまりにも英国的。
  • Anthony Philips - Wise After Event
  • Tony Banks - A Curious Feeling

プログレグループの創りだす音楽がすべて名作とは限らない。だが逆に、どのプログレグループも1つや2つは名作を残す。以下はその例である。(なお、名作の度合いと商業的な成功度合いとは比例しない。)

  • Focus - Moving Waves
  • Fields - Fields
  • Fruup - Modern Masquerades
  • Greenslade - Time And Tide
  • Quicksilver Messengers Service - (same title)
  • Caravan - In The Land Of Gray And Pink
  • Khan - Space Shanty
  • Gentle Giant - Acquiring The Taste
  • Pendragon - The Masquerade Overture
  • Soft Machine - Volume Two

特にお気に入り

・The Enid  「Six Pieces」(アルバム写真 右)と「Touch Me」が特に良い。幻の1979年Hammersmith OdeonにおけるLive videoが発見され、ついに2010年発売になった。早速購入して大感激。(Enidは「イーニッド」と読みます。) メンバーは交代したものの現在も当時の音楽性を保ちつつ活動を継続。
・Genesis  「Trespass」(アルバム写真 中央)が特に良い。Anthony Philipsがこのアルバムまで参加している。「Foxtrot」は2番目にお気に入り。
・Premiata Forneria Marconi  イタリア・ミラノのグループだが、緻密に組み立てられたアンサンブルに圧倒される。「Per Un Amico」(アルバム写真 左)が特に良い。
以上のグループは私の人生にまで影響を与えた。
・Kayak  オランダのグループ。ほとんどのメンバーはロイヤルアカデミーの出身。Ton ScherpenzeelとPim Koopman両名の生み出すメロディーは千変万化。名曲と呼べる曲が多い。
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プログレの聖地のひとつ、カンタベリー

カンタベリーといえば世界史で覚えたチョーサーの「カンタベリー物語」で知られる教会の町。イギリス南東部、ロンドンから高速鉄道で1時間強で行けますが、英国で今後是非行ってみたい場所のひとつ。日本のお伊勢さんに似て、中世、英国の人々は巡礼をしてこの聖地を訪れた。荘厳なカンタベリー教会は歴史的意味でぜひ拝観したいが、カンタベリーを訪問したいもう一つの大きな意味がある。それは英国プログレの著名なグループを輩出した地でもあるからである。ここ出身のグループは「カンタベリー派」と呼ばれている。

プログレが世界的に日の目を見る1970年以前はプログレを目指した様々なグループがアンダーグラウンドで頑張っていた時期。1965年から1969年にかけて。Caravan は Wild Flowers という名前で、Egg は Uriel という名前で。

カンタベリー派の音楽の特徴はといえば、そのインテリジェンス。Soft Machine の Mike Ratledge はOxford大学を出ている。音律のベースがブルーノートではなくどちらかと言えばコンテンポラリージャズ。変拍子と複雑なコード進行、自由な曲構成。次にどう変化するかわからないスリル感を味わう。Eggのなかでもメロディアスで聴きやすいアルバム「polite Force」(ジャケット画像右)中の「A Visit to Newport Hospital」は変拍子の良いサンプル。表紙を指折り数えながら聞くと良い。理屈派の音楽ですね。もう一つの特徴はギターではなくキーボード(オルガン)主体の音楽。どのグループもオルガンが中心。Caravanの3枚目アルバム「In the Land of Grey and Pink」(ジャケット写真中央)の「Nine Feet Underground」において次々繰り出されるオルガンメロディーは聞いていて気持ちが良い。

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1969年にリリースされた Soft Machine の 「Volume Two」(ジャケット写真左)は衝撃的。実際に耳にしたのは1970年になってから(大学1年の時)ですが、それまでアメリカン・ポップス/アメリカン・ロックに馴染んだ耳にはなんと新鮮であったことか。まさにブリティッシュ・インテリジェンス。アメリカにも Mothers of invention のような前衛的挑戦を行うグループもあったが、Soft Machine の知性とクールさは好き嫌いが両極端に分れるでしょうね。現在も愛聴しているアルバムです。このあと Soft Machine はジャズに傾倒していきますのでポップ性を持ったアルバムとしては最後のアルバムです。




「オールディーズ」について(1965 - 1969)

昔流行ったポピュラーソングを総称してオールディーズとよびます。綴りは「oldies」。一般的には1950年台から1960年代前半のヒット曲を Oldies と呼びますが、これらをパッケージして、CDなどで売られていろのをよく見かけると思います。アメリカではオールディーズ専門のFM放送局も数多くあります。

Zaucatにとってのオールディーズは 1960年代後半の、中学生、高校生時代にリアルタイムで聞いた音楽、すなわち最も多感な時代に聞いた米国を中心としたヒットチャート物のポップスを指します。今だからオールディーズと呼ぶわけですが、聞いていた当時は「まさに今流行っている曲」でした。

 1965年(中学2年)ころから聴き始め、プログレに目覚める1969年までアメリカのヒットチャート「Billboard」と「Cashbox」に登場するほぼすべての曲を、米軍放送の FEN や AFKN (American Forces Korea Network , 山口県では東京のFENよりも韓国の AFKN のほうが近いのです!)などで聞きました。ここからは私の持論なのですが、1965年を境にしてアメリカンポップスは大きく変化しました。それまでのシンプルで娯楽的で単調?な音楽から、多様性、構成の複雑化、音楽的なチャレンジがもたらされたのです。「革新」ですね。この背景はベトナム戦争の介入による米国における社会変化も少なからずあると思います。ヒッピーも生まれました。この文化はポップスに非常に大きな影響を与えました。

Zaucatのお好みのアーティストはコーラス系、ソフトポップス系のグループです。The Association, The Four Seasons, The Cyrcle, The Buckinghams, The 5th Dimension, The Mamas and Papas, The Young Rascals, The Left Banke, The Lovin' Spoonfulなど。当時、日本ではポピュラーではなかったので当然英語で聴き、英語で読み書きでしたので単語をたくさん覚えました^^; 曲名や歌詞に出てきた英文を覚え、その後の人生で色々役に立っています。



Zaucatにとって、オールディーズ・ピリオドのピークに聞いた最高の曲を紹介します。名付けて「The BEST of The BEST in my youth」

「The BEST of The BEST in my youth」

人間,年をとってくると少しのことでは驚いたり感動したりしなくなってしまう。しかしつい最近,随分長い間経験しなかった「歓喜」を経験することができた。

私は若い頃からポップミュージックを聞くのが好きで,どれくらい好きだったかというと,高校時代は学校にいる時間以外はほとんどこれを聞いていた。それも日本国内で流行っているものでは満足できず,韓国から飛んできた米軍放送(確か AFKN? だった)を聞いた。当時私は山口県宇部市に住んでいたので FEN は聞けなかったからだ。東京よりも韓国のほうがはるかに近い。旧式の真空管ラジオ、そして電波が遠くてワウがひどく聞き取りに苦労した。

今でこそ全米チャートものは日本でも同時ヒットしているが,当時はよほどヒットした曲以外,日本にわたって来なかったので,新鮮な音楽が聞ける満足感と,他の誰も聞いていないという優越感に浸りながらエアチェックに没頭していたものだ。音楽を聞く時間を半分にして,もっと勉強していればもう少しましな大学に入れたのにと思うが,そのかわりに今の仕事には就いていなかったかもしれない。

いつものように AFKN Hit Line を聞いていた。すると突然メロディックで弦楽をバックにした曲が流れてきた。1968年4月,受験勉強も大詰めの高校3年の春のことである。たまたまテレコを回しっぱなしにしていたので録ることができた。2〜3度聞いただけですっかり覚えてしまえるほどの印象深い曲だった。その後,何度もくり返してきくと DJ は The Cyrkle と言っているらしい。曲のタイトルは "Reading Her Letter" らしい。

The Cyrkle(サークルと読む)は当時ビートルズのマネージャーだった Brian Epstein に見いだされ "Red Rubber Ball" のスマッシュヒットでデビュー(たしか 1966 年)した 3 人組のポップグループである。この曲は日本でも少しだけヒットした。その後 2,3 曲チャート入りしただけで 1968 年当時はすっかり忘れられていたグループだ。

以降24 年間,機会がある毎に Cyrkle のレコードを捜し続けた。国内発売はまったくなかったし,輸入レコード屋でも見つからない。アメリカやイギリスのレコード店でも見つからなかった。

1992年1月末,突然,まったく突然に The Cyrkle のベスト盤 CD が発売された。さっそく買ってみると,なんと,曲名中に "Reading Her Paper"とある。もしや,と思い歌詞を見てみると頭に焼き付いているメロディー部分の「My, She's a pretty girl. My, She's a pretty girl.」があった!

そして今、この曲は私のベスト曲の中のベストを続けている。左にハープ、右からギターのコードで短いイントロが始まる。次第にキーが上がっていく、聞いたことのないコード進行、、、、 印象的なハープのアルペジオ、、、 1960年代の曲にしては凝りに凝ったオケのアレンジ、、、


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「Reading Her Paper」 by The Cyrkle

Got onto the bus
In my usual half-asleep daze
Happened to gaze around
And then I saw her
Sitting there right next to me
I pretended to be
Reading her paper
Checking out the morning news
Catching up on the world

My, she's a pretty girl
My, she's a pretty girl

I thought I'd speak to her
Though I didn't know what to say
Think of a way
She knows you're looking at her
But right then she turned to me
Again I pretended to be
Reading her paper
Checking out the morning news
Catching up on the world

My, she's a pretty girl
My, she's a pretty girl

What if she gets off at the next stop
And gets lost in the rush of the crowd
Why am I scared to show her
That I would like to know her

Now, she's getting up
And I realized soon she'll be gone
Could I be wrong
I think she's smiling at me
Sometimes, I don't know just when
I know I'll see her again

My, she's a pretty girl
My, she's a pretty girl

バスに乗り
いつものように寝ぼけ眼で
あたりをみたら
見つけた すてきな人
僕のすぐ隣に
あわてて読んでいるふりをした
彼女の新聞を
朝のニュースは何かな
世界の最新情勢は

声をかけてみようと思った
何をいったらいいかわからなかったけど
どんなふうに話しかけようかと考えた
僕の視線に気が付いたらしい
彼女はこっちを見た
あわてて新聞に目をやる
彼女の新聞に
朝のニュースは何かな
世界の最新情勢は

次のバスストップで彼女が降りたらどうしよう
そして人込みの中に消えてしまったら
なぜ ためらっているんだ
近づきになりたいこの気持ちを伝えなくては

彼女が立ち上がった
もうすぐ降りるんだ
もしかして
彼女 僕にほほえんでくれたのでは
いつか はっきりとはわからないけど
また 彼女と会える気がする

(後記)2017年、この曲のシチュエーションに似ている映画に遭遇した。その映画は、涙せずに見終わることが出来ない「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」。冒頭シーンが「Reading Her Paper」を彷彿とさせる。いずれも、青春時代真っ只中、ほのかな、しかも叶わぬ恋心を綴ったもの。 




「劇伴」について(1969 - 現在)

TV番組や映画のテーマソング、あるいは映像のバックで流れる音楽を「劇伴」とよびます。Zaucats にとってこの劇伴音楽はプログレ、クラシック、オールディーズに並び Zaucats音楽嗜好の4本柱の一つであったと思います。これに目覚めたのはポップスを盛んに聞いていたころと同時期です。


この項は書きかけです。随時、追記中です。





「Vaughn Williams」について(1969 - 現在)


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Ralph Vaughn Williams (1872-1958) Ralph は「レイフ」と読むらしい。VWと省略することが多い。英国、近世の作曲家。私が幼い頃はまだ生存、活躍してしていた。

VWはあまりにもイギリス的な作曲家である。果てしなく丘陵が続く雲立ち込めた日差しのないイングランドの田園風景、どことなく哀愁を帯びた、また単調なイギリス民謡、うす暗く寒いロンドンの下町、これらに一日中浸っていても飽きない、というかた以外はVWを聞かないほうがいい。退屈な音楽に聞こえてしまうだろうから。英国の作曲家で有名なのはエルガー、ホルストなど、万民に受けるが、VWだけは万民におすすめしがたい。このVWを私はこよなく愛する。(この項、書きかけです)

My Best Selection of VW

  • 交響曲第3番「田園」
  • 交響曲第2番「ロンドン」


小学生時代の音楽経験(1957 - 1963)

年代がどんどん遡っていきます。小学校5年生と6年生の時、合唱部と鼓笛隊に所属しました。合唱部ではNHK合唱コンクールを目指しましたが市の予選で敗退、全国大会に出場する学校もあったので宇部市全体のレベルは高かったと思います。(のちに高校生になって全国大会に出場、夢を果たします。)

鼓笛隊では小太鼓を担当。小太鼓隊は女子で構成されていましたが、全員赤い小太鼓でした。そこに私だけ男子1名加わり白い小太鼓でした。なぜ特例的に私が加わったのか、なぜ一人だけ不揃いの白太鼓だったのか??? 指導の先生が私のリズム感を認めてくださった結果だと解釈しておきます。なお、小学校から高校まで家の経済的理由で楽器を習うことはかないませんでした。


中校生時代の音楽経験(1963 - 1966)

中学2年と3年は合唱部に所属(1年はラジオ科学部、はんだごてを握り真空管と奮闘)。体育館に設置されたステージ上で合唱部が練習する曲を聞き、一緒に歌いたくなって親友2名と一緒に入部。その曲は「美しく青きドナウ」。


高校生時代の音楽経験(1966 - 1969)

高校生時代の音楽活動の1つに「合唱活動」があります。これもその後の人生に大きく影響を及ぼした要素のひとつとなりました。パートはテナー(テノール)。活動の中で、歌って最も気持ちの良かった曲を一つだけあげるとするならば、この曲になるでしょう。

  シューベルト ミサ曲第6番 変ホ長調

たかが高校生のクラブ活動としての合唱と思うなかれ、これがその後の音楽嗜好にたいへん大きな影響を与えたのです。また、この曲は宇部高校コーラス部が全国の頂点に立つきっかけになりました(NHK全国学校音楽コンクールで全国1位)。その後、ことあるごとに歌い続けコーラス部の愛唱歌になっていきました。

 宇部高コーラス部の指導教官であった和田邦江先生は東京芸大出身、ピアノが大変うまく、コンサートピアニストを目指していらっしゃった。そのためか、合唱の練習中、常に高度な音符単位での音楽表現を要求されました。「音楽の演奏表現を聞く耳」がここで養われ、その後の人生における音楽鑑賞にたいへん役立ちました。

「Nコン」の思い出

Nコン、NHK全国学校音楽コンクールは、全国2,000校以上の小中高が参加する合唱の全国大会で、毎年、全国大会がNHKで放映されるのでおなじみだと思います。Nコンは、私が小学校6年生から高校2年にかけて、最も大きな時間を費やした活動でしょう。

・小学6年(宇部市立岬小学校の合唱部員として参加) 山口県大会で敗退しました。
・中学3年(宇部市立常磐中学校の合唱部員として参加) 山口県大会で敗退しました。

 中学時代に合唱活動をしているとき、宇部市内で大きな話題になっていたのは宇部高コーラス部の活躍です。Nコンにおいて、1963年の全国2位を皮切りに、1964年 全国2位、1965年 全国1位 という華々しい活躍。中学3年のとき「優勝記念コンサート」を聞きに行き、その素晴らしさに感動して、親友(S君、T君)とともに「来年は宇部高コーラス部に入ろう!」と誓い合いました。
 当時、宇部高校は山口県内においてトップクラスの進学校でしたが、幸い、親友ともども宇部高校に合格するに十分な学力(この当時、クラスの上位3名くらいしか宇部高校に合格できなかった)があったため、翌年無事に3人とも入学。さっそくコーラス部に入部しました。

・高校1年(山口県立宇部高等学校のコーラス部員でしたが出場メンバーに選ばれませんでした。出場は2年生、3年生が優先のため。なお、この年は全国3位。)
・高校2年(山口県立宇部高等学校のコーラス部員として参加) 山口県大会優勝、中国地方大会優勝、全国大会銀賞(全国2位)。


私が宇部高コーラス部に在籍(1966-1968)していたときのNコン最高位は全国2位です。テノールとして参加しています。こちらがその時の貴重な録音です。課題曲「さよなら」、自由曲「蹄鉄屋の歌」。自由曲は無伴奏曲、途中テノールが主旋律を担当する部分があります。宇部高校コーラス部に対する当時の一般的は論評は「高校生のレベルを超えている」でした。また、他の高校の合唱部のみなさんが私達の合唱を聞いての感想は「聞いていて鳥肌が立つ。」でした。






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